あなたの肩に触れる手が

私は私が気にならない。私は存在している、他に何もない。私は「他人に評価させてはいけない自分」を持っている。それが私をあらゆるものから守り、自由にしてくれるはずだと、幼い私が考えたからだ。そうして幼い私が用意しておいてくれた、今ここで、話している私。

「評価されない」や「評価させない」ではない。そうされない、させない「ほどの自分」ではない。もっと内向的で、禁欲的、臆病で良くて、信仰するように、自分の中にある最も穏やかな場所に〝神を描くような〟そうさせてはいけないだ。それを生活の中で学んだ。

過去の未来である現在にいる私。かつての「いつか」が今、ここに。

あらゆる教育は、あなたの肩に触れる手だ。「そろそろ起きて」と優しく肩を揺らす手だ。しかし、それが無くても人は目を覚ます。その時がくれば誰でも必ず目を覚ます。人でいてね、私はそれだけで良くて。

私が、私は、私に、私を、私も、私、私、私のことばかり。それで、あなたは私と話してくれるんだっけ?

母の言い分は正しかった。私は他人の話など聞いちゃいない。目の前で「ああ、話しているな」が続く。あなたもそれで良い。ただ私たち「ああ、話しているな」がこのまま長く、続けば良くて。