パレードは急によそよそしい

母は私を色情狂と呼んだ。それから「お父さんには言えない」あなたがそのような人間であることを「お父さんには絶対に言わないで」と言った。杞憂であった。母の死後、私は堰を切ったように自身がどのような人間であるかを父に話して聞かせたが、彼の反応はただただ単純なものであった。「そうなんだ」それ以上でもそれ以下でもない。私の性質や性癖、つまりは他人にたいする自分勝手の全てが父のそれだったのだ。彼は娘をそこらの女だと思っていた。自身の娘であることを理解はしているが、ただの女だと思っていた。その上、全く興味のない女だったのだ。私が何をしても「だらしない娘」とはならない。だから彼が心を痛めることもない。私が何をしても「だらしない女」のしたことであって無関係なのだ。家族という役割の中で私と父は関係していたが、個人としては「そうなんだ」と相槌。話はそれで終わる。

お母さんへ

私はセックスを異国の祝祭のように思っています。知らない土地、知らない慣習、知らない喜びに誘われるように出かけて行く。土地や慣習は文化であり、個人の喜びなんてものは結局、文化によって形成されてしまうものなのです。文化ありきです。パレードは何かを暗示している。だから目で追います。しかし私がそれを知る必要はない。その華やぎは表面的には友好的であるのに、実情は大変に排他的です。他人の心にドアがないのと同じです。そして私がそれを好む理由ですが、終われば必ず帰される、この一点です。パレードは終わり音楽が止む。日が変わり、気が変わり、さっきまで同じ華やぎの中にいたはずなのに、パレードは急によそよそしい。そういうところを気に入っています。愛を込めて。話はこれで終わります。