あなたの肩に触れる手が

私は私が気にならない。私は存在している、他に何もない。私は「他人に評価させてはいけない自分」を持っている。それが私をあらゆるものから守り、自由にしてくれるはずだと、幼い私が考えたからだ。そうして幼い私が用意しておいてくれた、今ここで、話している私。

「評価されない」や「評価させない」ではない。そうされない、させない「ほどの自分」ではない。もっと内向的で、禁欲的、臆病で良くて、信仰するように、自分の中にある最も穏やかな場所に〝神を描くような〟そうさせてはいけないだ。それを生活の中で学んだ。

過去の未来である現在にいる私。かつての「いつか」が今、ここに。

あらゆる教育は、あなたの肩に触れる手だ。「そろそろ起きて」と優しく肩を揺らす手だ。しかし、それが無くても人は目を覚ます。その時がくれば誰でも必ず目を覚ます。人でいてね、私はそれだけで良くて。

私が、私は、私に、私を、私も、私、私、私のことばかり。それで、あなたは私と話してくれるんだっけ?

母の言い分は正しかった。私は他人の話など聞いちゃいない。目の前で「ああ、話しているな」が続く。あなたもそれで良い。ただ私たち「ああ、話しているな」がこのまま長く、続けば良くて。

音楽だから、文学だから、芸術だから、とかそんな、高尚な主張は一つもなくて

私は自身の中にそれがあることに気づいた。それに気づいた日から今も夢中だ。私は私の女を使いたいと思っていた。一刻も早く。幼い頃からずっと、その日を心待ちにしていた。

今も夢の中

少女に「それ」を暗示させること。大人を誘惑し、それがここにあると顕示させること。まるで少女に「その意思」があるように見せること。そのような音楽、文学、芸術。これらはいつの時代も議論、そして嫌悪の対象だ。テレーズ、ロリータ、マチルダ、誰かの少女。誰かのハードキャンディ、もちろんいけないことだ。

私は幼い頃からいけないことがしたかった。幼い私にとって最大の禁忌、それがセックスだった。性に対して興味を持つこと、いけないことだ、なぜなの?それは大人がすること。子供はしないこと。大人がすることを、子供がする。だから大人も子供も面白がる。そこに何か意味があるように感じてしまうからだ。そこにあるはずの他人の意図を探してしまう。それでもう、目が離せない、頭から離れない、例えばそこがただの空白でも。

私はただ私を楽しみたかった。ただの空白に意味を持たせること、他人にそう見せること、その行為。それは所謂。

自身の衝動に嫌悪したことはない。それが表れる時、私の底が震えるからだ。深淵の入り口、自身の入り口、私は私を使ってみたい。私の女を使ってみたい。この欲望。

私は少女を使った音楽、文学、芸術に言うことは何もない。ただ懐かしい。見上げる深淵の入り口、なぜなの?眩しい。誰かの少女、私がいる。今も夢の中、ここにその意思がある。

だからもっとくつろいだ雰囲気で話そう

その程度のもので私の何かが変わるだなんて思わないで欲しい。心配いらないよ、気にしないで。だからもっとくつろいだ雰囲気で。

その種はやがて青い花を咲かせる。良質な土、太陽の光、毎日の水やりに「綺麗に咲いて見せてね」という〝慈愛に満ちた〟声かけ。その種は美しい青い花を咲かせた。それなのに「どうして赤い花じゃないの?」だなんて。なんて酷い話。だから私は環境や教育というものをほとんど信用していない。それは最初から赤い花の種であることを条件としている。だからため息。環境や教育により〝美しく咲かせる〟ことは出来る。しかし、青い花を咲かせる種から赤い花を咲かせることは出来ない。出来ないというより、おかしい。「どうして」そんな疑問はおかしい。

それが私の考える人間の善悪だ。環境や教育により、その種から悪を咲かせないことは出来るかもしれない。美しく咲かせることも。しかし、その種から善は咲かない。

よく見て、これは花を咲かせない種。最初にはじかれてもおかしくなかった。だから母には感謝する。声をかけ続けてくれてありがとう。ちゃんと聞こえていたよ。それでちゃんと、言うことは聞かないよ。

世界への挨拶

迫害されてきた人々が、また別の人々を迫害する。かけっこで一番になれば金色のメダルがもらえる。メダルがもらえなければ「なぜ私たちの時にはもらえないの?」となるだろう。迫害されてきた人々が、また別の人々を。それが金色のメダルだからだ。一番の人々は、一番の人々が〝すべき〟振る舞いをする。それは世界への挨拶、私たちに知らせている。その手には金色のメダル〝テストテスト〟彼らの挨拶、今、金色のメダルは「ここにある」

その役は誰がやっても同じ。皆、その役を憎んではいない。その役が自分に回ってこないことが気に入らないだけであって。

ねえ、あの話をしてよ。なんだっけ。そこから数学になって、宗教になって、次々に分岐して。それでそこに残ったものが、どれにもならなかったものが哲学なんだってあの話。

私、その話が好き。人間の心みたいで好き。

〝綺麗〟には指が生えていて、その綺麗な指先で他人の心に触れている

「お母さん綺麗だね」と言われて生きてきた。そう言われるたびに、私は、何とも言えない気分に。自分の大切なものを褒められて嬉しい。それから「それで、私は」との間。

父ははっきりと言った。お母さんのように綺麗な女の子が生まれてくると思ったのに「そうじゃなかった」だから「愛せなかった」と。

父を責めることは出来ない。父を最低だと思う一方で、私は、理解している。理解することが私には可能だった。私もおそらく、父と同じことを考える。恐ろしいことに。私は血を憎み、あなたを許す。

それを聞いて楽になった。ああ、なんだ「そんな理由だったの」と。それがもっと高尚な理由であったのなら、私はおそらく、許せなかった。あなたではなく、自分を。

私は今「お母さん綺麗な人だったね」と言われて生きている。綺麗、恐ろしいことだ。死んでも尚、他人の口をこじ開ける。綺麗、そんなに良いものだろうか。

当たり前だ、

死ぬほど良い

私は母に似なかった。しかし、私には綺麗な女の血が流れている。私の外側が酷いものであっても、内側には綺麗な女の血が。それだけで不思議と気分が良い。綺麗、恐ろしいほどに。

私の愛って酷い

「私のどこが好き?」「歯並びが良いところ」いつも同じ答え。

ねえ、

あなたの歯って酷い

彼の歯並びが好きだった。彼自身がそれに劣等感を抱いていることも、そのせいで〝歯並びが良い女が好き〟であることも、全て。その全てが私の快楽だった。四六時中、それが私の気持ち良いところをくすぐって離さない。私が彼の酷い歯並びを愛すのは、私自身の歯が、綺麗に並んでいるからだ。もしも、私の歯並びが彼と同じように酷いものであったのなら、私は彼の歯並びを愛しはしなかった。愛せなかった。私の好意はそのように醜い。そしてそのような理屈で、私には、愛せないものがたくさんある。

あなたは「自分が持っていないものを持っている人」が好き。私は「自分が持っているものを持っていない人」が好き。

同じことだ。右を選んでも、左を選んでも、醜い。もう上も下も、あなたも私も当然、醜い。あなたは木になったリンゴに手を伸ばしている。私は木から落ちたリンゴを探している。私たちは同じようにリンゴを食べたい。死ぬほど食べたい。同じ木の下、同じ理由、別の選択、同じ結果。

死ぬほどって簡単に言うじゃん、

かわいい

持っていないと愛せない。自分で満たされていないと他人なんて愛せない。十分の先に必ずある「もう一口欲しい」それだけを信じている。その純粋な欲望だけを他人へ。

そのような理屈で、あなたには、愛せるものがたくさんあった。私以外も簡単に愛すじゃん、だからさようなら。いつも同じ答え。

「あれも欲しい、これも欲しい」と私

「基本的に人間に物欲はないんだよ。資本主義の社会に欲しいと思わされているだけで、物欲なんて幻想だよ」と友人。

私と彼の決定的な違いだ。私に言わせれば「人間に物欲はない」こちらが幻想だ。私たちは社会の中で生きている。私たちは生まれてからこれまでに一度も、一度だって、社会の外で生きたことはない。人間でいる限り、社会の外で生きることは出来ない。社会から取り残されたってそこはまだ社会の中。誰かがあなたを殺せば、誰かは必ず裁かれる。どこまで逃げても〝その対象〟だ。あなたが誰でも関係ない。提示不要。身分など証明しなくとも社会は、あなたの肉であり、体の隅々にまで流れる血だ。あなたを守り、誰かを裁く。誰かを守り、あなたを裁く。それが生まれた時に結ばれた約束なのだから。

実際に「人間に物欲はない」が正しかったとしても、私たちには確かめようがない。社会の外に出かける方法は今のところない。だから「基本」と呼ぶことが出来るのは、社会(資本主義)の中で生まれた「物欲」の方だ。そして「物欲はない」こちらが幻想。

問題は、私がこの主張を友人に返してしまうことだ。だって、私は「基本的に人間に物欲はない」この主張に納得しているのだ。ほとんど同意している。それなら、そうだね、と返せば済む話。だけど、それは出来ない。私には出来ない。

私たちは「灰色」で「大きな耳」と「長い鼻」を持つ生き物を、単純に「象」と呼んでいるわけではない。彼らがどこで暮らし、何を食べ、他の個体とどのように関係し、どのように生まれ、死んでいくのか。その生態と、彼らを生かしている環境までを含め「象」だと認識している。それが私たち人間の象だ。

そうだよね?不安になる。もちろん単純に「灰色」で「大きな耳」と「長い鼻」を持つ生き物が象であることは確かなのだけど。

人間には社会が含まれている。社会が含まれていないものを人間と呼ぶことは出来ないし、そのような人間はそもそも存在していない。

友人は人間ではないものになりたがっているのかもしれない。いつも酷く疲れた様子だから。彼の耳元で囁いてあげたい。これからも続く〝私たちの人間〟に、彼がもっと酷く絶望するようにそっと「何もかも幻想だよ」と私。